[見花山の生い立ち] …… p. 3 1983(昭和58)年ニュータウン最初の入居が始まり、見花山と大丸の町名が決定した。また1986(昭和61)年にはニュータウン内に研究施設も導入された。 港北ニュータウンの交通計画としては、便利で安全なサービスが提供出来るように、公共の交通機関を重視した交通計画が立てられている。 その中心となる鉄道計画では、横浜市高速鉄道3号線(横浜〜新横浜〜ニュータウン〜田園都市線あざみ野)、高速鉄道4号線(東横線日吉〜ニュータウン〜横浜線中山)の2路線と地区内に6ヶ所の駅が計画され、計画通り実現された。 港北ニュータウン事業も、現在は良好な住環境のもと、社会のニーズに対応した多様な機能の導入、複合的で活気のあるまちづくりなど、最終段階に入っている。 3.見花山自治活動の歩み 1983(昭和58)年にニュータウン地域最初の供用が開始され、見花山と大丸の町名が決定し、その年の10月ごろより住宅建設・入居が本格的にはじまった。そして翌年の5月には見花山地区には約70軒の人々が生活を始めていた。当時の住民には自治会活動の意識は全くなかった。 隣接し長い歴史を持つ川和町内会としては、住民が急激に増えつつある見花山が行政に対する対応、地域に共通する問題の解決、或いは住民の親睦と福祉の向上にたいしてどのように対処して行くのか見守っていたが、見花山住民は自治活動を開始するには至らなかった。 そこで川和町内会から当時の見花山住民に対して、自治活動に対する問いかけが1984(昭和59)年5月19日、川和町内会の上サ会館に於いてなされた。 |