[見花山の生い立ち] …… p. 2
"花見山"や"けんか山"に土器と石器を残した人々こそ、私たちが住む現在の見花山(ミハナヤマ)に最も早く住んだ人々であった。
港北ニュータウンの中で最も早く見花山に私達が生活を営みだしたように‥‥‥。
2.港北ニュータウンの建設
港北ニュータウン地域は横浜市の郊外部が急速に乱開発されるなかで、道路、鉄道等の交通施設に恵まれなかったため、昭和30年代までは、かなりまとまった規模で自然の状態が保たれてきた。しかし昭和40年代の高度経済成長期に入って急速に周辺の開発が進み、このまま放置すればこの地域も当然これらの影響を受け、乱開発されることになるのは明らかであった。
そこで横浜市はこの地域における乱開発を未然に防ぐとともに、人口を計画的に誘導し、併せて都市と農業とが調和した新しい町を実現するために「乱開発の防止」「都市農業の確立」「市民参加のまちづくり」を基本理念として港北ニュータウン建設事業を計画した。
この地域の大半を占める部分を当時の住宅・都市整備公団の土地区画整理事業施行区域として定め、計画的な都市化を図るとともに、一方では都市農業の確立と生産緑地としての景観の保存を図る農業専用地域を計画し、都市と農業との調和がとれたまちづくりの実現を目指した。
公団施行地区はまちづくりの基本方針として「緑の環境を最大限に保存するまちづくり」「"ふるさと"をしのばせるまちづくり」「安全なまちづくり」「高い水準のサービスが得られるまちづくり」の4つの基本方針を設定し、具体的には斜面緑地、寺院、屋敷林等を保存、それらを核に公園と緑道で構成される緑のネットワークや機能的に配置される歩行者専用道路のネットワーク、さらに地区内に合わせて6ヶ所の駅をもつ2本の鉄道の新設、南・北センター地区の設定など新しいまちづくりを目指した。
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