[見花山の生い立ち] …… p. 13 途中拡大工事が相継ぎ、更に大地震で崩れるなど工事には大変な苦労が伴ったが、27年間の歳月をかけ、1887(明治20)年4月に完成した。その後の地震で崩れた部分の修復などがあり、1891(明治24)年に山開きを行い、浅間大神の石碑を建立した。富士講は文化、文政のころ八百八講として栄え、毎年6月1日の富士山の開きに合わせて白い行衣に数珠を首にかけ、鈴を振りながら7富士参りを行っていたようである。(現在の富士山の山開きは7月1日) この歴史のある富士塚もニュータウンの街路計画にかかり、文化財調査団による調査終了後1978(昭和53)年に消滅した。川和の旧富士塚は現在の見花山と富士見が丘を結ぶ"夕焼け橋"の西南側(現在のダイハツの販売店付近)にあった。 しかし地元郷土史研究会等から保存の陳情がなされ、1986(昭和61)年に川和富士公園として現在の形に再現されている。 旧富士塚の頂上に祀られていた浅間大神の石碑と庚申塔は、現在は川和町の八幡神社境内に祀られている。 〔本文書は主に「見花山10周年記念誌・見花山の生い立ち」「見花山誕生20周年記念」誌を主な資料として、これに新たに下記資料からの追加、補正、統合など再校正をし、新たに纏めたものです。本文書は非売品であり、著作権法などの出版関連法との絡みはお許し頂ければ幸いです〕 参考資料
*飯島 弘氏は、昨年(2013年)12月に急病のためご逝去されました。 |