[見花山の生い立ち] …… p. 12

5.川和富士について

 港北ニュータウン地区内とその周辺地域には、富士信仰に根ざした人工の富士塚が数多く点在している。
 その昔、霊峰富士に参拝する"冨士講"が生まれたが、実際に富士山に登れない農民達は富士山を模した富士塚を集落ごとに築造し、富士山の山開きに合わせて7つの富士塚巡りを行っていたようである。当時は女性の富士登山は禁止されていたが、富士塚巡りは女性も許されていた。7富士とは荏田、川和、池辺、茅ヶ崎、北山田、新羽、篠原のそれぞれの富士塚で、ニュータウンの地区内には川和、茅ヶ崎、北山田、新羽の4箇所があった。茅ヶ崎と新羽はニュータウン整地工事のため消滅し、現在では川和富士と北山田富士が保存されている。川和富士塚築造の経緯は次のようであった。

1662(寛文2)年加賀原の入会野について川和村と池辺村との間で記録に残る領線争いが起り、その後も入会野、水利権をめぐって争いは絶えなかったようである。ある入会野争いについて川和村と池辺村とが争い、1858(安政5)年1月、綱島村の調停役立ち会いの上、川和村役人と池辺村役人で境界線が定められ長い争いを終結した時があった。その時、このような争いが二度と起こらぬよう、その当時の富士山信仰の影響から、富士塚を記念に造る話が出た。その後、川和村年寄信田秀五郎、同岩沢金治郎が発起人となり名主信田太三郎の斡旋で1860(万延元)年3月15日に川和富士塚築造が協議決定され、その年の4月より工事が始められた。

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