見花山10年のあゆみ
この資料は平成5年に見花山自治会設立10周年を記念して作成配布されたものです。 写真の追加と説明の補筆をおこないました。
見花山の生い立ち 花見山の遺跡から旧川和富士方面を望む(中央奥) ニュータウン建設のため移築された現在の川和富士(高さ15m) 下記の写真と図を追加しましたので参照してください。
見花山10周年記念平成5年10月17日 見花山自治会編集
見花山のあゆみ 私達の見花山は港北ニュ−タウンの中で最も早く住宅地として供用が開始された所である。昭和58年より人々が住み始め、今年でちょうど10年が経過したことになる。 1.見花山の先住民昭和52年9月、川和高校の東にあった低い丘から、みみずばれの線や爪の模様の付いた土器や柄の付いた石ヤリ等がいくつか発見され、専門家の調査によりこれらは最古の縄文土器と石器であることがわかった。それから半年におよぶ発掘が行なわれ、ついに縄文時代初期の村の跡が掘り出された。この遺跡の特徴は竪穴式住居も発見されたことである。通常、この時期の住居は洞穴と考えられていたので、これは当時の住まいを考える上できわめて重要であった。そこは地元の人達が古くから呼んでいた地名に因んで、「花見山(はなみやま)遺跡」と名付けられ、縄文時代の始まりを明らかに出来る大切な遺跡であった。 そして、「花見山遺跡」発見から約半年後の昭和53年春、花見山の向かいにある「けんか山」からこれにつぐ土器が発見されたのである。「けんか山遺跡」は「花見山遺跡」より明らかに新しいものであったが、両方ともその年代は約1万2千年前と推定されている。 花見山やけんか山に土器、石器を残した人々こそ、この港北の地に最も早く現われた人々であった。ちょうど港北ニュ−タウンの中で最も早く見花山に我々が生活を営み出したように‥‥。 2.見花山町名の由来 見花山には昔、「花見山(はなみやま)」と「けんか山」と云う小高い丘があった。花見山は今の7班、けんか山はかりん公園のあたりであった。昔の川和村は池辺、青砥、佐江戸、荏田、市が尾村と接しており、寛文2年(1662年)に加賀原の入会野について川和村と池辺村が争ったのをはじめ、何かに付け領線争いが行なわれていた。現在の見花山の古い地図を見ると、川和町と池辺町が複雑に入り組んでおり(添付の地図参照)、今の見花山は周辺の村の領線争いの中心になっていたのである。村の人々はそこにある小高い丘の名を「けんか山」と呼んでいた。「見花山」と表記しているのは風流からか、喧嘩の字を嫌ってのことであろう。 3.川和富士について 港北ニュ−タウン地区内とその周辺には、富士信仰に根ざした人工の富士塚が数多く点在している。 4.港北ニュ−タウンの建設 港北ニュ−タウン地域は、昭和30年代までは、かなりまとまった規模で自然の状態が保たれていた。横浜市はこの地域における乱開発を未然に防ぐとともに、人口を計画的に誘導し、併せて都市と農業が調和した新しいまちを実現するために港北ニュ−タウン建設事業を計画し、昭和40年2月に横浜市の6大事業の一つとして発表した。 5.見花山自治活動のあらまし 昭和58年より見花山では住宅の建設が始まり、翌年の5月には約70軒の家が建ち、人々が生活を始めていた。当時の見花山には町内会の組織は無かった。 (参考資料)
(編集委員)飯島 弘 宗村 美貞 荒井 毅 宮本 興亜 見花山10年のあゆみ
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